2008年

ーーー7/1ーーー 単独登山の意味

 この夏は、友人と登山をする具体的な計画がある。テントを使っての北アルプス、二泊三日の縦走である。

 対象となる山々は、それぞれ何度も登った事があるし、それらをつなげての縦走もやったことがあるから、私には不安の無い登山である。しかし、同行者にとっては、初めての本格的な登山となる。初めて山に登る楽しみは、その本人にとってはもちろんだろうが、連れて行く側にも大きいものがある。

 私の山登りの基本は、仲間と行動を共にするものである。高校生の頃から山登りをしているが、一泊以上の長さの登山を、単独で行なった経験はほとんど無い。泊りの山行はほぼ百パーセント、仲間と共に行ったのである。一人で出掛けることは可能ではあったが、それを拒絶するものが私の中にあった。それは万が一事故を起こした時の恐怖である。

 登山という行為には、多かれ少なかれ危険が伴う。道のある山に登っても、木の根や岩にけつまずいて、打撲や捻挫を起こすことがある。そんな些細なことでも、歩けなくなる事態に陥ることもある。そういう時、もし一人だったら、たちまちピンチである。同行者がいれば、救援を呼んで貰うなどの対処が可能だが、単独であれば、人知れず山中の道端で、暗く寒い夜に突入することとなる。

 以前登山の友人と、この件について話をしたことがある。その人は単独での登山を好んでやっていた。しかも、ほとんど誰とも会わないような山域の奥深くへ、数日の行程をテント泊りで行くのである。

 私が、単独山行は危険だから行わないと言うと、その人は「確かに単独は危険だ。しかし、それだからこそ、注意力を張りつめ、感性と思考を最大限に研ぎすまして、自分を安全に登らせ、無事に里へ帰らせようと努力をする。その緊張感と充実感が、単独行の魅力なんだよ」と言った。

 私はなるほどと思った。グループで登ると、とかくいろいろなことを他人任せにしてしまう。また、歩きながら喋ったりして、注意力が散漫になるのは否めない。仲間と共に登る楽しみというものはあるし、また仲間がいなければ実行できない登山もある。しかし、自然と一体化する楽しさや、野生に戻ったような感覚に浸りたければ、単独で登る方が適しているのだろう。

 登山というものは、危険を覚悟で快楽を求めるという、不可思議なものである。安全のことばかりを考えていては、山には登れない。「一番安全な登山は、山に登らないことである」などという逆説的な言い方もされる。登山はそういうものであるから、危険としっかり向き合う姿勢が必要である。単独で登れば、否応無くそれが求められる。そして、危険と対峙しつつ、自らを安全に生かすために判断をし、行動をするということは、人にとって最高クラスの自由であり、喜びであるのは、間違いなかろう。

 またその山男は、山の上で泊ることに執着していた。北アルプスの麓に住んでいる私が、日帰りで登って帰って来ることを「もったいない」と言う。日帰りで行けるような山でも、静かに一晩を過ごせる場所が山上にあるなら、泊るべきだと。その理由を問うと、「山は夕暮れと夜明けが一番美しい。だから山の上で泊るのだ」と言った。

 登山という行為は、ごく普通の生活をしている中年男性を、哲学者のようにしてしまうのである。



ーーー7/8ーーー 有明チェアの歴史

 画像は、「有明チェア」と名付けられた椅子である。設計図の日付を見ると、1993年となっているから、最初の品物が出来上がったのは15年前のことである。

 世に送り出した当時は、何人かのお客様が買い上げてくれた。しかし、私の個人的な印象からすると、私の体格にはちょっと合わない部分があり、つまり座り心地に難があり、あまり気に入ってなかった。また、その当時の私の技量からすると、製作に多大な手間がかかり、コスト面で折り合わない作品のように感じられた。そのため、この椅子は製品のラインナップから外された。言わば「お蔵入り」となったのである。

 昨夏、あるお客様からダイニングセットの注文を頂いた。お客様の好みで、椅子4脚を全て違う形のものにすることとなった。そこで、この「有明チェア」が復活した。ただ、昔のままでは自分自身が納得できないので、背もたれ回りに変更を施した。その結果、座り心地は大巾に改善された。

 その注文仕事は、納期に余裕が無く、いわば「ぶっつけ本番」でやらざるをえなかった。図面を描き直してから製作に入るという通常のステップは省略した。元の図面の使えるところは使い、変更する部分だけ寸法、形状を入れ替えた。こういうことをやって上手く行く保証は無いが、結果として良い感じに仕上がったのは幸運だった。

 せっかく復活させた椅子だから、ちゃんと図面を修正し、製作手順書や治具も整えて、製品として対応できるようにしたいと思った。

 この夏に松本で木工作家の合同展が予定されている。それに出品する作品の一つとして、この椅子の改良版を使うことにした。そういう機会を利用しないと、なかなかこういう改善計画は実行できない。

 図面を引き直し、型紙を取り、試作品を作ってみたら、昨年のものとはまた違った見え方がした。材質が違うせいかも知れない。今後この椅子はナラ材で作って行くつもりだが、昨年のものはクルミ材であった。形を整えるために、また手直しをした。

 出来上がったものが、この画像の椅子である。展示会場で見映えが良いように、つまりフォルムが明瞭に見えるように、植物性塗料で濃いめの着色をした。そして座面は、いつものペーパーコードではなく、イグサで編んで貰った。和風のシックな趣きを狙ったのである。

 これを展示会に出して、来場者の反応を伺ってみようと思う。そして、さらに改善すべき点が見つかれば、手直しを加えて行くことになるだろう。

 一つの椅子の完成度を高めて行くプロセスは、ときとして長い年月を要するものなのである。



ーーー7/15ーーー 転職のテーマ曲

 世間では夕食時にテレビをつけているお宅がまだ多いようだが、我が家では特別なことが無い限りテレビはつけない。夕食の準備のときはつけていても、夕食が始まると消すことにしている。

 これは上の子供が小さかった頃からの、一貫した方針であった。家族全員が揃ってまとまった時間を過ごせるのは、夕食時くらいしかないから、その時間は家族で話をしようという趣旨である。もっとも子供たちは、テレビよりも家族の会話の方が面白いと言っていたが。

 テレビはつけないが、音楽はかける。ジャンルはクラシック、ジャズ、ポップス、シャンソン、民族音楽など多彩である。その中で、この曲だけは他のものとは別の思いで聞くというのがある。グリークのピアノ協奏曲である。

 この曲は、我が家における「転職のテーマ」なのである。

 およそ20年前、脱サラをして木工の道に転じたとき、意識を鼓舞するために毎晩のように聞いたのがこの曲であった。聞き続けるうちに、いつしか「転職のテーマ」と呼ばれるようになった。

 他にあまたあるクラシックの名曲、いやクラシック以外でも良かったはずだが、その中で何故この曲が選ばれたのか、今となっては思い出せない。たぶんなんらかのタイミングがそうさせたのであろう。その理由は不明だが、この曲が持つ雰囲気は、人生の転換点におけるテーマ曲として相応しいように思う。

 出だしは波乱含みである。未来に対する不安のようなものも感じられる。しかし、美しく流れる曲相は、思い詰めたような強い意志を感じさせる。

 第二楽章は、いよいよ大海に漕ぎ出したような雄大さがある。大きなことが始まる時、状況は意外に平静であり、心の中も平穏なものである。そして楽章の途中からドラマチックな盛り上がりを見せる。希望と絶望が葛藤しているかのような雰囲気である。

 最終楽章になると、事態は明瞭になる。もう迷いはなく、一途に突き進むのである。いかなる障害もはねとばし、ぐんぐんと高みに登って行く力強さがある。そしてときおり立ち止まって、周囲を見渡し、しばしの心の安息を得る。さらに最終部に至ると、多彩な感情が入り乱れ、激しく高揚する。もう止まらないという感じである。しかし、知性は深くコントロールしている。そして爆発的なエネルギーのクライマックスで終わる。

 このような曲を、作者はいかなる動機で作ったのかと、不思議に思うことがある。まさか身内に転職者がいたわけでもないだろう。いかなる衝動が、このように美しく、かつ激しい曲を生み出したのか、謎めいている。ともあれ、その作者の意図とは、おそらく全く関係無いと思われる状況で、しかも極東の島国の一市民の人生の中に於いて、この曲が意欲と希望を与え続けてきたという事実。

 打算的なことを言うべきで無いとは思うが、芸術作品の偉大さを、あらためて感じるのである。



ーーー7/22ーーー 鍋による炊飯

 
このところ、鍋でご飯を炊くことが多くなった。そのきっかけは、この夏に予定している泊まりがけの登山である。

 テント泊まりの山行には炊事がつきものだが、私にはほとんど経験が無い。たいていは炊事が得意な者にまかせていたからだ。

 一昨年に一人で槍ヶ岳へ登った時、テントの中でご飯を炊いた。これはひどい出来だった。底は真っ黒なお焦げ、中段はガンタ(芯のある飯)、表面は水分過多でベトベトという、いわゆる三段飯であった。この時はもう一度水を加えて煮直し、グチャグチャになったものにレトルトカレーをかけて、なんとか腹の中に納めた。

 今回予定している登山は、本格的な山は初めてという友人と行く。テント生活も登山の楽しみの一つだなどと格好の良いことを言いながら、ぶざまな食事を作ったのでは、面目が立たない。そこで炊飯の練習をすることにした。

 まずインターネットで、鍋を使ったご飯の炊き方を調べた。いろいろなサイトがあったが、それぞれ内容に差があった。中には正反対のことが書いてあるものもあった。

 調べて得た知識を元にして、私なりに炊飯の手順を考えた。

1. お米を研ぐときは、素早くやる(糠臭さがお米に染み込むのを防ぐ)
2. 水はお米の1.1倍(体積比)
3. 米粒が全て白くなるまで水に浸す
4. 最初は強火で、一気に沸騰まで持って行く
5. 沸騰したら弱火にして、吹きこぼれないギリギリの状態を維持する
6. 湯気の出が少なくなったら、蓋を開けて見て、お米の間の水分が無くなっていることを確認する
7. 火を消して、30分ほどむらす

 この手順に従い、コッヘル(登山用の鍋セット)と携帯用のガスコンロを使って炊いてみたら、一回で成功した。少々あっけないくらいであった。

 ただし、コッヘルが小さいので熱の回りが速く、ガスコンロの火力を絞っても火力が強過ぎたため、吹きこぼれないギリギリの状態を維持するのに少々の難があった。

 そこで二度目は、コッヘルの下にアルミホイルを敷いた。これによって火力の調節は具合良くなった。この時のご飯も上出来であった。

 そんなことをしているうちに、家内が関心を示し出した。

 我が家は普段、電気釜でご飯を炊いている。それよりも、鍋で炊いた方が美味しいだろうと家内は言った。そう言われてみれば、そうかも知れない。

 そこで、登山用の実験を離れ、台所で鍋を使ってご飯を炊いてみた。これも成功だった。確かに電気釜で炊いたご飯と比べて、味や食感が良いように感じた。特に、冷や飯になってからの味は、格段に違うように思われた。

 鍋炊きのご飯はすっかり人気となり、しばしばリクエストされるようになった。もちろん全て私が一人でやるのである。そして、回数を重ねて慣れて来ると、当初作った手順に若干の修正が加わった。

 まず、水分の具合を確認するのに、蓋を開けることはなくなった。開けても別に問題は無いのだが、湯気の出かたで判断が出来るようになったので、それは不要となった。

 さらに、火を消すタイミングは、湯気が出なくなった後、鍋の中からパチパチという音がし出した時だと分かった。これは注意深く耳を働かせなければならないが、確実な判定方法だと言える。

 そして、火を消す直前に30秒ほど強火にする。これは家内のアイデアである。どんな意味があるのかは分からないが、そんな事が書いてあったサイトもあったような気がする。

 この確立した手順で、その後もしばしば炊飯をしている。我が家で使っている電気釜は、一合や二合を炊くには大き過ぎる。鍋で炊いた方が味も良いし時間も短くて済む。家内や娘の弁当の飯を、早起きした私が鍋で炊くということが、日常化しつつある。

 今後の検討課題は、「むらす」必要があるかどうか、あるならどのくらいの時間が適当かである。むらしの時間の間に、ご飯は鍋の中で冷えてしまう。できれば炊きたての熱いご飯を食べたいと家内は言う。

 ところで、ご飯の炊き方について昔から「始めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」という格言がある。これが意味するのは何であろうか。私に言わせれば、「始めパッパ、中チョロチョロ、最後パッパ、蓋は開けても締めれば良い」となる。



ーーー7/29ーーー 暑かったインドの思い出

 昨日(7/26)は、岐阜県多治見市で気温39度を記録したそうである。人の体温は36度くらいであるから、はるかに体温を越えた温度である。

 会社勤めをしていた頃、出張でニューデリーに行った事がある。夏だったので、インドの本領発揮とも言うべき暑さだった。たしか、日中の最高気温は45度くらいだったと記憶している。毎日のように、何人もの市民が暑さのために死亡していた。

 社員が共同で住んでいた宿舎と事務所との間を、マイクロバスで移動するのが日課だった。事務所と言っても、ホテル・ハイアットの一つのフロアーを借り切って事務所替わりに使っていたもの。フランス企業との合弁事業とは言いながら、大胆なことをやっていたものである。欧米の観光客がオシャレな服装で佇んでいるホテルのロビーに、マイクロバスから降りたTシャツ姿の日本人がわらわらと駆け込む様は、奇妙な光景だった。

 私が着任してすぐの日、宿舎を出発したマイクロバスの中で、暑いから窓を開けようとしたら、同僚から制止された。窓を開けると風が当たって暑いと言うのである。熱い風呂に浸かるときは、じっとして動かないのが良いのと同じで、なるべく空気をかき回さないようにするのが、暑さをしのぐ原則とのことであった。

 屋外にいる現地人たちは、一様にその原則に従っているようだった。日陰でじっとしているのである。客の荷物を運ぶベルボーイたちも、仕事が廻って来るまでは、日陰に立ちつくして動かなかった。灼熱の太陽の下で、暗い日陰にとけ込むようにして、インド人たちは身をひそめていた。

 ところで、我が国では人が死ぬことを「冷たくなる」と言う。「気が付いたときには、お爺さんは冷たくなっていました」などという表現を使う。死んで生命活動が終わると、体温を維持する機能も無くなるから、体の温度は周囲の温度に近づいて行く。我が国では一般的に、体温よりも気温が低いので、死ぬと体の温度が気温近くまで下がる。だから冷たくなるのである。

 では、気温45度のインドではどうだろうか。「気が付いたときには、お爺さんは暖かくなっていました」となるのだろうか。

 



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